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2008年 11月 14日
知人から「岡山の閑谷学校の楷の木の紅葉が今見事」と聞いたので、早速行ってみました。樹齢93年の楷の木ですが、それはそれはきれいな右と左、赤と黄色でとても美しい紅葉でした。 閑谷学校は備前藩の藩校とは聞いていたのですが、建物も美しく、拭きこまれた床に映る紅葉と緑の葉ははっとするような美しさでした。また、受付で貸していただくラジカセを聞いたり、資料館に立ち寄って知ったこの学校の成り立ちや歴史は、驚くばかりのものでした。以下は備前市のホームページからの抜粋です。 寛文6年(1666)、領内巡視をしていた備前藩主池田光政は和気郡木谷村の北端・延原の静かな地を訪れた。この時彼の脳裏に浮かんだのが、学問の理想郷、庶民のための一大道場の建築でした。その思いを実現すべく同8年にはこの地に手習所を設置、ついで同10年には重臣津田永忠によって本格的な工事にとりかかり、地名も閑谷と改められました。この学校建設にあたっての光政公の情熱は熱く、たとえ池田氏が移封となっても自立経営できるようにするなどの処置がとられていました。建築物の屋根瓦は備前焼が用いられていますが、そのために近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いて用意しました。 江戸時代にあって、武士、農民、町人を分け隔てなく入校させていること、また、他の藩からも入校させたり、年令も子供と言われる年令から青年くらいまで幅広い年齢層を入れていること、建物も永くいい状態を保てるよういろんな工夫をしていること、寄宿舎のあるところから火事がでても講義をする講堂などが延焼でもえないよう小山を作ってあること、池田藩が取りつぶしなどにあってもその学校が自立して存続できるよう何町歩かの周辺の田畑をこの学校の所有としていることなど、子弟の教育こそが日本の未来を作るという大望に根ざして作られたことがよくわかります。昔は偉い殿様がいたんですね。 どこかの知事や政治家にきかせてやりたい。 存分に紅葉を楽しんだ後、備前の「一文字」といううどんやさんに行きました。ここも知人からの情報です。 このお店はセルフでうどんを食べれるようにもなっていて、とてもにぎわっていました。しらさぎうどんはセルフではないですが、国産の有機栽培のしらさぎ小麦粉を自家製粉して手打ちの麺です。塩にも水にもこだわりがあります。 麺はもちもち感があり、コシがあるけど、つゆになじんでやわらかです。なにか懐かしいうどんを食べたような感じがしました。 右側は備前福岡の郷土料理「どどめせ」です。ちらし寿司というかバラ寿司の類です。これはおうちによって違う味なのでしょうね。 いつも応援のクリックありがとうございます。
by oishi--i
| 2008-11-14 07:49
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